03.人間のクウカン

2007年04月15日

たとえば薄明かりの…

 03.人間のクウカン >


自分でない視点が、自分の立ち位置になる。
これは意外に難しいもので、
自分の思いや感覚を仮託しあえる相手としか、
この交換は成り立たないだろう。

写真・H女史写・箕面のカフェにて
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2005年12月10日

ここへ来る余裕

 03.人間のクウカン >


袋小路に建っている家に間借りしている友人の部屋。
これより先に家はなくて、路地から腰くらいの高さの門を開けると30センチ角のブロックの敷石を踏んでドアにたどり着く。両脇に木が植えてあり、右は専用庭的洗濯物干しスペースだ。ドア脇に自転車。
部屋は雑然として、友がいる。
ただ、それだけの吉祥寺の一角。

写真・masatomo写
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2004年12月07日

あるこころの局面にて…

 03.人間のクウカン >
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いぇ〜い って、なにがガッツポーズかっていうと、左のドクターOの家族に会いに、右のS々木と平塚まで遊びに行った4年半前のことなんですが、飯食い終わって、じゃあね〜ってばいばいしたところ、このトンカツ屋の駐車場の側溝に、我が愛車(手前)がハマッて動けなくなり、すぐに携帯にて既に走り去ったドクターOを呼び戻し、やつの緑ボルボにロープでひっぱってもらって見事脱出!の直後だからです。

ふ〜
このころは、いまの女房殿と遠距離になる直前で、正確には東京駅へ見送りに行く4日前のことで、先行きがなにも見えないような日々が記憶の中にあります。
そんなころと言ってもほんの、4年半前よ。
・・・なんとなく思い出してみました♪

写真・masatomo写・いまも日記にも登場する同級生ドクターO&S々木・2000.03.30

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2004年11月11日

水色の…

 03.人間のクウカン >
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この写真、ただの走るクルマから撮った空。 でもね、ぼくがこの空を横目に見るときの気分はきっと、 ぼくがなにも語らなければ伝わらないよね。ただの曇り空だから。

♪水色の天使が舞う あの虹の彼方に
 夢出づる人魚のような想い出が住むという
 ・・・
 悲しみの雨が降る この街のどこかで
 人々が眠る頃 俺は泣き続ける
 ・・・

口ずさんで、この空を後にする。
次、いつ、この空の下を訪れるのだろう。

写真・masatomo写・熊野川河口・詞〜Bye Bye My Love(U are the one)〜桑田佳祐

Bye Bye My Love ( U are the one)
・・・作詞・作曲 / 桑田佳祐

(はっと見りゃ湘南御母堂…)
華やかな女が通る まぼろしの世界は
陽に焼けた少女のように 身も心も解ける

Every night & day ひとりきり君待つ Rainy day
Oh, my dear one 忘られぬ物語

水色の天使が舞う あの虹の彼方に
夢出づる人魚のような想い出が住むという

I can be your love この気持ちわかってるのに
抱きしめたいほどに愛してた

Oh, oh, いいことだよね You are the one.
you are the love, You are the world.
遙か遠くに女晴れ いいもんだよ To me

哀しみの雨が降る この街のどこかで
人々が眠る頃 俺は泣きつづける

I'll be home again 心から見つめられたい
Oh, my dear one 君だけをこの胸に

Oh, oh, いいことだよね You are the one.
You are the love, You are the world.
我はカモメ 恋に鳴く Yes, you belong to me.

言葉と裏腹に 涙がこぼれてく
声にならぬほど愛しい

波音は情事のゴスペル あの夏よいずこへ
酔い覚めのヌードで今 誰かに抱かれてる

Oh, oh, いいことだよね You are the one.
you are the love, You are the world.
遙か遠くに女晴れ いいもんだよ To me

Oh, oh, いいことだよね You are the one.
You are the love, You are the world.
我はカモメ 恋に鳴く Yes, you belong to me.

Oh, oh, いいことだよね You are the one.
you are the love, You are the world.
遙か遠くに女晴れ いいもんだよ To me
Oh, yeah, BYE BYE MY LOVE

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2004年08月05日

この街のこのヒトとの出逢い

 03.人間のクウカン >
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たどたどしい英語で電話を掛け、メトロの駅で待ち合わせた彼は、このひとを大切にしているひとと同じように、昔から知っているような気がした。コトバがそんなに流暢に通じなくても、この初めての逢瀬は、素敵な時間になった。緊張しないでいられたのは、このひとを大切にしているひとのお陰か。

ぼくにとって初めてのこの街。
3人でモンマルトルの丘に登り、ある家を探し裏道を歩き、みつからず断念し繁華街をそぞろ歩き、シャンゼリゼ行きのメトロに乗った・・・

夜、飯の後、コンコルド広場からメトロに乗って彼と別れるとき、ちょっと泣きそうだったよ。
ぼくが。

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写真・masatomo写・上/蛇尾&M、サクレ・クール寺院にて・下/シャンゼリゼから続くコンコルド広場に入る

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2004年08月01日

:: 夏 ::

 03.人間のクウカン >
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ローカルな駅に向かう、真夏日。

照りつける太陽の下、中学校の脇を通る。

駅が見えて、電車が行ってしまった。

次まで20分のんびりしよう。

白い柱に支えられたホームの屋根の上は、

一面の青い夏の空。

吹き抜ける風が汗ばんだ肌に心地いい。

気持ちいいねと笑いあう。

ベンチに荷物を置いて、

小銭のやりとりをして飲み物を買った。

静かな駅のまわり、駐車場、アパート。

ほんとうはよそから来たおれは、

ずっと昔、ここで過ごしたんじゃないかと感じた。

おれたちは幼なじみでむかしもこうして街に出たっけ、

・・・なんて気がした。


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写真・masatomo写・西阿知の…
記事・www.masatomo.com別館より

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2004年07月27日

澄み渡る空

 03.人間のクウカン >
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昨日、北へ向かった友は、今日は北の島に到着した。 あまりにわるい天気予報に、東京にいるぼくでさえやきもきしたが、昨日から送ってやった念が通じた・・・なんて自分の手柄みたいには言いませんが、きっと友の澄み渡る心が通じたんでしょう。

こういう巡り合わせなんです。
朝まで暴風で寒かったのが、一転、あめあがりの青空。

写真・TY写・礼文島のアオ

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2004年07月26日

恋愛飛行

 03.人間のクウカン >
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今日のたったいま、この空の上を飛行し、 愛しいひとに逢うため北上する友がいる。

ちょうど昼時、この上空を飛んでいるはずなのだ。
朝方雨が降り、分厚い雲に覆われた東京の空。
ほら、おれの晴れ男、こんなところでも効いただろ。青くひらけた。しかもさ、虹も見たよ。いま、その虹が出てる。素晴らしい時間になると、ずっと信じてきたよね。今日からまた心躍る夏の日。

さて、予報じゃよくない北の空をお天気にする念を送るぞ。いぇ〜♪

写真・masatomo写・今日の空PM1230

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2004年07月19日

みんなでのぼったみち

 03.人間のクウカン >
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おー、スッコロンダ・・・んじゃない、おらにゃあ、地面に座っちゃいけないなんて決まりはない、まっすぐ歩くって決まりもない、途中で行ったり来たりして砂の上で横になってもいいのさ。 海沿いの丘に登った、夏の想い出の一日。 おまえ、覚えているかな、ずっと。 いいよ、忘れても。 忘れない限り何度でも、大人のおれたちが語って聞かせてやる。 あの日、おまえとみんなであの丘に登ったってね。

写真・masatomo写・王子ガ岳にて・ここのパノラマ

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2004年07月13日

つい千八百年くらい前にここで…

 03.人間のクウカン >
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思い立って、明日早朝出立を決めたある日。 昼飯は奈良で・・・の思いでひた走る東海道。12時すこしまえに到着した布留の森。

「布留」と書いて、「ふる」と読む。古い森だからか、神が空から降ってくる森だからか。司馬遼太郎を読んで、思わず訪れたこの森。神は山と自然の中にいる。ご神体は山そのもの。奉られるイワクラに神はまた降り立つ。日本書紀に書かれた日本の伝説の宝物が発掘された古社のうしろの深い木々の間に分け入ると、わたしはヤマトの国の時間とつながる。我が国のはじまりの場所。

ぼくの大和盆地は、やっぱり真夏の灼熱の太陽の印象なのは、ここが日の本の国がはじまったところだからか・・・こじつけか。あはは。

写真・masatomo写・奈良県天理市石上神宮境内にて

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2004年07月08日

Dr.O

 03.人間のクウカン >
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同級生のO西。 こいつとは中学一年からずっとつるんできました。実はMと知りあったのも、こいつのお陰。こいつの彼女(いまは奥ちゃま)の音大の同級生がMだったんですね・・・ってことは置いておく。

10代のあいだじゅう相当つるんでいたのに、20代はお互いにそれぞれの勉学や生活があってあまり行動を共にしてこなかった。ふと、思うね。あっというまにオヤジになるぞ。明日はこいつの誕生日。
いちおう、覚えててやったぜ。
おい!これからのおれら中年街道は悪友として頼むぜ、おい、わかってんのかよ。こら。

写真・masatomo写・O西@水戸芸術館中庭

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2004年07月03日

元気かよ?

 03.人間のクウカン >
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うつくしくない写真も載せてヤレってことで、H県A市M之荘在住の同級生Mらかみ(リンクの中のバイオリンのページ作ってる)です。去年くらいに事件を起こして、会社の楽な部署に栄転してからは元気そうでしたが、去年末あたりから恋に凹みっぱなし。恋に凹むってコトはうまくいってないってことね。だからおれの突撃作戦を実行すればよかったのに。 いまは完全に大事なタイミングを失ってしまっているこいつは、いつもそんな状況に関わらず、そこそこの給料取りなので、ときどきおごってもらいます。いままでに、中華、みんなで焼き肉、ファミレスなどなど、何度となくそういうことがありました。出世払いにしてくれ。この日はえーとお好み焼き屋です。西宮だか芦屋だか忘れましたが、そのへんを食える店探して2号線を行ったり来たりグルグルまわって、結局適当に入った店。すごいボリュウムだったなあ。ああ、腹減った。 関係ないけどまたみんなでどっかにキャンプ行こうぜ。オトコだけで。あはは。

写真・masatomo写・注文待ち@お好み焼き屋

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2004年06月21日

走れ青春!

 03.人間のクウカン >
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ああ、おれが運動会の校庭のまんなかに立つことなど、考えたら、あるのかいな? いまから教員になんかならないし、ましてや中学生にもならないし、父兄になるかもしれないけれど、ずっと先ですね。まあ、ありえることではあるかね。・・・ちょっとまえに、「おい、まさとも、おまえは天才中学生だろ、全部、中学生のまさともの脳内妄想の世界なんだろ」とネット上にて言われたことがあります・・・・・・・もしかして、ぼくは先日、運動会で走り回った生徒のひとり・・・!? 笑

写真・美術の先生写・M@運動会・2004/6/5

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2004年06月04日

幼なじみも幸せ

 03.人間のクウカン >
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ブーケトスの起源とかいわれとかはまったく調べたこともないけれど、結婚式だかで花嫁の投げたブーケをとったヒトには幸せななにかが舞い降りるって、信じるものは、救われる・・・?

おいらの結婚式で、そのブーケをしっかりキャッチしたのは、おいらの小学校の同級生の写真のコイツで、明日は記念すべき、コイツの結婚式&披露宴な〜のだ。やったじゃん♪
小学校の同級生というと、それなりに長いつきあいだナア。脈絡ないけど、おまえ、背が高いぞ、こら。175だろ。あのなあ。もしかしたらさあ、おいらのでっかい女好きってさ、おまえのせいかも知れんの、知ってたか?知らないよね。初恋の相手じゃあないんだけどね。不思議なんだよね。うむ。おいらもなんの確信も全然ないし。アハハ

とにかく、おめでとうだよ。応援するよ♪

写真・カメラマンのお姉ちゃん写・我が披露宴のトスキャッチ直後
右に、クリーニング屋のシマダも写っとる。こいつも同じ小学校同級生。

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2004年05月29日

海沿いの広大な敷地の歴史

 03.人間のクウカン >
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緑に囲まれた家。 ここの主のじいさんは勝海舟の孫で、よく知られる勝海舟の写真を見るとたしかに似ている。輪郭と目なんかそっくりだ。それを目の当たりにするとおかしなことで、なんだかあっちがわとこっちがわから知り合いが来たような、そういうキモチになる。環境問題に一家言をお持ちのこの方は、自宅も緑に囲まれてしまった。 ・・・ぼくは持ち上げようともおとしめようともしていない。詳細はここに書かない。 歴史はぜんぶ、大波小波に翻弄される人生からなる。

写真・masatomo写・T邸アプローチ・場所秘

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2004年05月27日

われに流るる九州男児の血

 03.人間のクウカン >
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我が祖父のふるさと、久留米にて。 祖父は実家を勘当され東京に出てきて、それ以来、一度も九州へ帰ることなく人生を終わった。だからかどうか、ぼくは久留米を目指して走ったことがある。そしてその旅はまだまだ終わらない。 一時期祖父は銀座と日本橋に5、6件の店を持っていたが、いつのまにか人手に渡ることになってしまった。 実は密かに、ぼくは、そのリベンジを誓っているのだ♪

写真・masatomo写・久留米城趾@福岡県・ここの地図

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2004年05月16日

人生とシゴトをしていくことと

 03.人間のクウカン >
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クリーニング屋のシマダ君である。こいつとは幼稚園の時から一緒で、店にでているヤツには、行けば逢える気軽さから、いまもときどきぶらっとなにやら話しこみに行く。いや、たいした話はしないか。

中学の時、ヤツの親戚のこれまたクリーニング屋にふたりで一日だけ手伝いに行ったことがあって、その時、ふたりの仕事を見ていたヤツの叔父さんは、ぼくは器用なのでズボンプレス、ヤツはそこそこなのでシャツの仕分けかなんかをやらせた。そのことを回想すると、ヤツは、クリーニング屋の息子として相当、くやしかったらしい。

今のヤツは、写真のとおり、ちゃんと家業を継いでいる。ぼくは、ヤツを偉いと思い、そんなヤツを尊敬している。

シマダクリーニングサイト・お近くの方は是非)
写真・上・masatomo写・やつの仕事風景(ややボケたの選んでやった)
・下・シマダクリーニングの先々代現役当時の画・やつの店で発見

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2004年05月13日

キモチを手向けること

 03.人間のクウカン >
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茅ヶ崎のNさん。こんど結婚します。おめでとう!! 正確に言うと、もう結納は3月に済ませたそうです。シンガーソングライターとして東京で活動してきましたが、青森での新生活が始まります。音楽も、つづけるんだよね!応援しています。

ヒトが好きでないと、生きていくのがつらい・・・と言い切るほど確信もなにもないですが、すくなくとも、ぼくはヒトから、君はヒトが好きなんだね、と何度か言われてきた。そして、そうなのか、と思っている。というわけで、これまで少なめだったヒトの画像も出します。

写真・masatomo写・MとNさん・茅ヶ崎のカフェにて

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2004年05月07日

ぼくの血潮〜♪

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家っちゅうものにほとんど、かかずらわらないでいられるのは、ぼくは長男なのに、ぼくの父親は7人兄弟の末っ子だからだ。あれ?8人か9人だったかな?あとで確認しておこう。あまり気にならないけど。

結婚式のとき、「両家」とか「コバヤシ家」とかって言い方を一切させなかったり、因習的なやり方はどうでもよいので、結納のかわりに双方の両親あつまって食事会にしたり、会場の開いていた仏滅に式を持ってきたり、まあ、自己流にしてきた。我が道を自分の脚だけを頼りに歩こうと思っていた。でも、結婚そのものが因習的なものだ、とか、結婚は(ひとの自由を制限するというようなあまりよくない意味合いで)社会契約じゃないか、と言われたことがある。結婚がいいものか悪いものかを考えているなら、それは前近代、ぼくは、結婚をいいものにしようとしているのだ。

また、以前に父方のおばさんから、「まあちゃん(親戚にはそう呼ばれる)も、ここのお墓に入ってね」とお願いされた! 父の実家のお墓である。もう祖父母はいないし、ここの墓をこれから誰が守るのだかが微妙なんだと思うが、うえにおじさんおばさんいとこおいめい、沢山いるんじゃないのか? みんなそんなに薄情なのか? というより、もう祖父母ともいない父方の方へ、ほとんどでかけないぼくが一番薄情じゃないか、どうしてそんなやつが墓守になれるんじゃ?

・・・で、なにが言いたいかというと、結論はいまはないのである。いつまでもないかも知らん。別に、言いたいことがないとイケナイわけではないでしょう。あ、こんなおいらでも、墓参りをしようというココロはありますよ。今月中に、父方、母方の墓に参ろうと思っています。

写真・masatomo写・コバヤシさんちのお墓

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2004年05月03日

いつのまにかつもるはなし

 03.人間のクウカン >
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逢いたい友がいる。そいつが今朝、夢に出てきた。 大学の航空部(グライダーに乗る体育会所属の競技部っす)で知り合ったやつだ。これほどに優しい男もいないだろうと思えるやつである。よく、つるんでもいたのだが、この7年、音信なしである。彼は卒業後、JALにパイロットとして就職した。詳細ははぶく。どうにかして連絡しようと思う。まさか、訓練で死んではいないだろうな。もう、時間からして、副操縦士になっているはずだ。大井町の寮は出たのだろうか?おい、元気か?あのカレー屋以来だよな。バイクに乗ってるのか?まさかプリムスには乗ってないよな、またドライブに行こうぜ。カスタムカーショウにも行くか?あ、おれはMと結婚したぜ。おまえはどうだ?おい、坂手!話すことがいろいろあるよ・・・

参考写真・滑空機(グライダー)ってこんなの・瀬尾さん写
http://www.tp-airworks.com/index.htmより拝借

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2004年04月13日

「自分」がいて「他人」がいること

 03.人間のクウカン >

いま、迷っていませんか?
 毎日のどんなことでもいいです。わからないこと、先行き不透明なこと、答えがみえないこと、あきらめかかっていること、いろいろに迷っていませんか。なにか思いついたあなた、ぼくも仲間です。

ページをめくりつつ、このヒトの書く文章は、やっぱり途中で読むのを止めたり、途中から読んだり、一部を抜き出したりできないなあ、と思ったので、全12章の5章まで読み終わったところで、じゃあ最後だけ読んでみるべ〜と第12章を読んでみた。

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冒頭、
「この本のタイトルは、あまりにもだいそれています。『いま私たちが考えるべきこと』とは、なにごとでしょう。私が読者の立場にいたら、こんなタイトルの本に絶対手を出しません。」
とはじまり、第1章で、
『「自分のことを考える」とか、「自分のことを考えろ」ということになって、「まず自分のことを考えるひと」と、「まず他人のことを考えるひと」と、人にはこの二種類がある』
と考え始めるこの本は、最後の最後、
『「私はそう考える」ーただそう言うだけで、「あなたの考えること」は、私の管轄するところではない。
 おわりである。』
とそっけなく結ばれてしまうのだが、第12章『「答えがない」という新しさ』の最後あたりには、それでも答えらしい、著者の言いたかったことが書いてあった。

『いま私たちの考えるべきことは、「必要に応じて”私たち”を成り立たせられるだけの思考力と、思考の柔軟性をつけること」ーこのことに尽きるだろうと、私は思う。』

…ピンと来ないでしょ?
あたりまえ。さっき書いたように、途中から読んでいい文章じゃないんです、これ。上の引用だけ読んで、なにかが分かったとしたら、それは大方間違い。最初から、ゆっくりじっくり読むしか、道はないのです。このサイトの4/10の記事「信じる」で紹介した谷川俊太郎の詩と、同じことを前提にして、著者の言わんとすることを体現したのがこの本です。読んで、「自分の頭で」考え続けないと、わからないのです。

引用:『いま私たちが考えるべきこと』橋本治・新潮社

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2004年04月07日

最後の問い、そこからはじめる。

 03.人間のクウカン >

「それからだいぶ楽になった」
そう語る、ちりちりパーマのおじさんは、いい歳をして、もう子供もいて、それでもそのとき取りかかっていた自分の仕事に不安を抱き、夜も眠れずに部屋を出てすぐ下を流れている川の土手を行ったり来たりして冷や汗をかきながら考えたのである。

ぼくが、この文芸批評家・加藤典洋というおじさんの言うことにはいたく自然に接することができるのは、このひとの「批評とは自分にとって、徒手空拳で行うものという原則」があったからなのだ!
持たざる者のコンプレックスのあるぼくは、このヒトの態度によって世界の風を感じることができる。

『百の知識をもつものを前に、そういう「知」を何らもたないものが、いわば批評的センスと頭脳の力だけで五分五分の勝負をできる』
と言うこのヒトの仕事は、それ自体で立っている。…すっとばしていうと、このことは、ぼくたちがただそこに生きているコト、の意味を見いだすことに似ている。そう思った。
加藤典洋おじさんが、
『もし、そうした「知」というものを知らないでは、批評として十分な仕事ができないというのであれば、批評というものもたいしたジャンルではない、わざわざ自分がやるまでもない、と思った』ことは、たんなる仕事に対する態度ではなく、生きる命へのやさしいまなざしだったのだ。

今日は、恋人と会うよりも、ひとりで勝手に街を歩いてひとりでカフェに入ることを選ぶ、そういう日常の判断とか、ここで思い切ってパリに飛んでしまわないとわたしの海外移住の夢は叶わないかも知れないから思い切るぞ!、なんて一大転機をつかまえることとか、そういうときこそぼくたちは「徒手空拳」なんだ! 純粋な自分にゆだねられる、右か左!
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加藤典洋の仕事の理想については、
『わたしの批評家の最良の像は、単独行で徒手空拳のままあっというまにエヴェレストの頂を極め、下山する、あのラインホルト・メスナーという登山家である。』
そんな(批評の)仕事の極意も書いてあったよ。
『まず準備はできるだけ周到に行なう。そのあげく、最終的に自分にとってわからない点、最後のアポリア(難局)がどこにあるかを探りあて、それを一つの問いの形においてみる。…(中略)…そこまできたら、その調べたところを全部捨てる。そして、その最後の問い、そこからはじめる。』

引用:『日本風景論』加藤典洋(講談社文芸文庫)・あとがきより

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2004年03月29日

あしたに恋する旅

 03.人間のクウカン >

 ふたりきりで話をした別れ際に、いろいろ考えすぎないでいられた学生の時に知り合ったぼくら夫婦がうらやましいと、島に赴任中のそのヒトはいった。…ぼくの周辺ではただいま人生の選択に迫られているやつらが多い、といういいかたは適当ではなくて、ひとつひとつの判断が人生を大きく左右する、あるいは人生の大切な局面を見逃さないで真摯に自分の道と向き合っている、みんなそうなんだ、と考えた。

 Mと2人の友達はチケット予約の関係で先にジェット船で帰り、30分遅れの客船でひとりで帰るぼくの出航までの時間に、みんなを見送りに来たそのヒトは気を遣ってつきあってくれて、島滞在中のMたちにココロを尽くしてくれた感謝の気持ちと共に話した短い時間に、自分のコトバで話をするそのヒトへの同志の気分を感じ、こういう出逢いをうれしく思った。

 情報過多の豊かな世の中、表現の分野では<過剰ななにかを捨てる>時代であるとも言われている。けれどもぼくは、島に行ったことで新しい明日を求める欲求に駆られ、また一歩を踏みだそうと思い、自分にもみんなにもある<まだない何か>を再確認した。まだまだ、探し走り続ける旅は終わらないのだ!

そしてもうひとつ考えたのは、「いろいろ考えすぎないでいられた学生の時に知り合ったぼくら」が、これから好きな人と出会ったりこれから恋人との関係を発展させるひとより、なんにも特別なことはないんだと。いま生きているこの時間はいつでも新しい。それを古くさくする「いろいろ考え」ることなどは、やっぱりほどほどで捨ててもいいじゃないかと。 
〜ぼくらは、<なにかを捨てながら走る>のさ ♪〜

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竹芝まで早く到着することやM達と一緒に帰ることやもろもろの気持ちをあきらめて、航海時間3時間のジェット船より、8時間の客船をえらんだことで得たものは、ほんとうにはかり知れないものです。

写真:masatomo写 出航後・ちょっとさびしい島の影 2004.3.29

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2004年03月26日

存在そのものが魅力的なひと

 03.人間のクウカン >

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「存在そのものが魅力的なひと」といわれたひとの言葉だから、ふれてみたいと思った。

歴史家の網野善彦氏が今年2月27日に亡くなられたそうだ。
多くのことは書きません。ご興味を持ったらこのふたつの新聞の追悼記事を読んでね。

それで、網野氏が、〜短大の教授として、歴史になじみの薄い学生にどう興味を持たせるか、知恵をしぼった。遺書「『忘れられた日本人』を読む」(岩波新書)は、その工夫の記録だ〜ということで著されたこの本を買った。これから読むぜ。

「人類は死をみつめる壮年期を迎えたと語」った氏の見つめたなにかを知りたい。
ちょっと今日の文は感傷的だけど、しょうがない。なんせ、誰もが失いたくないと思ったひとが死んだこと、歴史の分野の大事な人材がひとりいなくなったことが、呑気なぼくにもわかるんだから…

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2004年03月24日

100万回生きたねこ

 03.人間のクウカン >


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きのうの晩眠ろうとベッドで読んだら、あしたが待ち遠しくなった、ある本の文章を載せるね〜。そのまんま引用しちゃいますぜ。わはは
(以下引用)
 佐野洋子に『100万回生きたねこ』という童話がある。一匹の猫がいて、この猫は何千年にわたり百万回も死んでは生まれ変わる。彼はさまざまな生を経験してきた。そこで見聞きしたことを話し、周りの猫たちに自慢するが、ある時、自慢話に乗ってこない一匹の雌猫に感心をひかれ、はじめて自分以外の存在に目を向け、恋をする。子供もでき、いつも一緒にいるが、やがて雌猫が老衰し、死ぬと、この猫も、はじめて死のうと思い、死んで、二度と生き返らない、という話である。

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 なぜこの猫は雌猫のそばで死ぬことを選ぶのだろうか。彼は、そこで自分が百万回も生きてきたのはこのことのためだ、というようなあること、一回だけの「お金で買えないもの」に出会っている。しかしそのあることとは、なんら特別なことではない。一匹の、他人にとっては何の変哲もないただの雌猫を、好きになることなのである。
(以上引用)

ここに書かれた絵本「100万回…」は昨日(3/23)の記事でぼくが「ひとの心や感覚はいくらでももとの自分に立ち戻ったりどんな強い波にもさらわれないで立つことができる」と書いたそのことを語っているのだと思う。

引用:「ポッカリあいた心の穴を少しずつ埋めてゆくんだ」加藤典洋(クレイン)より

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2004年03月23日

友情と愛情と、恋と愛

 03.人間のクウカン >

あるところであるひとに<男と女>に関するしつもんをされて、そのうちのふたつは「女性との『友情』と『愛情』の区切りは何ですか?」と「『恋』と『愛』の分別は?」であった。あらためて聞かれると、考えて答えないとイカン。それで、男女間の友情は当然あるに決まっている派のぼくは考えました、なかば強引に。ははは

まず『友情』と『愛情』は、一直線上にはないものと思いました。つまり、同時に存在は可能で、どっちかが絶対的になくなることもないと。人間の中身はごちゃごちゃと結び付き合っていて、また相反することがてんこもり、というか、あるものが心の中にあったらそれに矛盾するものもそこに同時にあるのが人間です。
その中で考えて、
『友情』は、多少のことがあっても「まあいいか」と許すか、相手にかまわないでいられる心情のこと。
対して『愛情』は、積極的に対象にかまってしまう心情のこと。『愛情』はヒトの欲望の部分にも深く根を下ろしていて、独占欲や支配欲までひきつれてきます。『愛』には失うことを恐れ、それを阻止しようとする欲望がついてまわるのです。

さて続いて、『恋』は、『来い』、 『愛』は、『逢う』、『合う』または『相』という語感で、これが言語学的に合っていようとなかろうと、気分としては、
『恋』は、いま自分の腕の中にないものを求める、あるいは失ったなにかを探しているココロ、
『愛』は、目の前の相手やそこにあると思えるなにかを、失いたくないと思い、あるいはもっと大事にしようと思うココロ。

…んで、あと質問にプラスして大事だと考えたのが、ひとの心や感覚はいくらでももとの自分に立ち戻ったりどんな強い波にもさらわれないで立つことができる!ということ。それは、「友情」も「愛情」も、「恋」も「愛」も、ヒトに外側から襲いかかる世の中のシステムの力に打ち克ち、乗り越えるエネルギーの源だからです。…

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2004年03月21日

微妙なふたり…(?)

 03.人間のクウカン >
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ちょうど一年前の3/21はMが実家にひとりで帰っていて、ぼくはいえで悠々自適であった。 そこへいきなり電話〜「いまから行く!」と。 そしてやってきたこのふたり。男はぼくの中学からの同級生で、京都で化学の研究中、女性はMの学生寮時代からの仲良し。ぼくたちがきっかけで知り合ったふたりの、その歴史もそれなりに長くなった。ときどき逢って食事する友達同士のまま数年。やつには京都で彼女ができ、右の彼女はフリーの身になり、当初とは逆の状態になりました。 …じつはこれは、男女の友情は、微妙な恋愛の前後(このふたりは一歩手前)を踏み損なった先にあったりもする、その実例なのです。これはこれで落ち着いて見ていられる関係なのかも。

まあしかし、この紅茶ポットが隔てる距離感、みんなはどう見るのかな。

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2004年03月04日

限りある欲望のそのむこう

 03.人間のクウカン >

ほとんど全文引用なんかして申し訳ないけれど、こういったこともしていきたいと思います。
これはまたタカハシ先生の書評からです。野坂のおっさんの引用と同じ本からです。まあそれは置いておいて、まずは…(以下抜粋)

   少女へ     評:映画『少女』
 
 久しぶりに美しい、ほんとうに美しい映画を見た。
 奥田瑛二監督・主演の『少女』という作品だ。原作は連城三紀彦。
 ぜひ見るようにと奥田さんにいわれて行った、午前十時からの早い試写会、閑散とした試写室で、恥ずかしいことにぼくは溢れるものをこらえることができなかった。

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2003年07月06日

ぼくらはみんないきて

 03.人間のクウカン , 08.コラム@s-site >

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小学校の3年のころだったろうか、スラっと背の高い妙に生き生きと歩くオトコとすれ違った瞬間を鮮明に覚えている。そのオトコのことを当時すでに僕は知っていた。彼は、山本寛斎。
 
寛斎の娘・山本未來が生まれ育った地元の話なんかをしているテレビ番組をさっき偶然見ていたら、幼なじみの親友というオンナが登場した、そいつはぼくの小学校の同級生だった。おい、水野!おまえだヨ。アハハ
こいつら、同じ小学校の出身なのである。(山本は2つくらい下)

時の流れを感じる時、その郷愁に涙するまでで感情の力を使ってしまわないようにいたいと思ったら、すぐ近いうちにこいつらと直接話す時が来るような気がした。思い込みだって、エネルギーになればヨイ。
山本未來や水野になんの感情があるわけではない。あるとしたら、頑張っている姿を見て勇気を少しもらった感謝か。

番組のおわりころ、未來の忘れられない恩師が出るという。
「おおくぼせんせ〜!」未來が呼ぶ。
(ノ゚o゚)ノ オオオオォォォォォォ-!
小2の、ぼくにとっても忘れていない担任の大久保先生だった!
未來も21年ぶりだと言う。ぼくはそれより数年上回る年月ぶりだ。
歳を取ったが、かわらないあの大久保先生だ。
やさしすぎるのでこちらが子供ながらに、学級は大丈夫か不安になるくらいの先生だった。ぼくが当時そんなことを考えていたか実際分からないけれど、いま思い返すとそう思えてしまう、それくらいに柔和な先生だ。

先生には別段逢いたいとは感じなかったのだが、自分が歩いて来た道のナガサを思った。
まどろっこしい言い方になるが、ぼくを支えて来たのは、こういう人たちの間にぼくがいたことがある、それがあるからだ。

みんなも生きていて頑張っている、ぼくも頑張っているところをよかったら見てもらいたい、ぼくもまたみんなの頑張っているところをもっと見たい・・・そんな気分がココロの底に注ぎ足されたようだった。

俺も負けない!
頑張れ未來〜!

http://www.amuse.co.jp/artist/mirai_yamamoto/profile.html

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2003年06月29日

わたしとせかい

 03.人間のクウカン , 08.コラム@s-site >

ウ〜ムムム・・・
下の6/29の文は抽象的に過ぎたかニャ?
簡潔にわたしと世界の関係の思考を示すため、
ここでぼくに示唆を与えている表現を書こう。

「私が生まれる前から世界はあり、
 私が死んだ後も世界はあり続ける。」

まずは、
ひとりいる自分、
人間の総体、
生きとし生けるものの総体、
宇宙全体・・・
そういった存在するものの境界領域と、
自分の知覚と認識の限界を考えてみよう。

ひとつ補足する話をすると、
<死>は<生>の「反対」か?
肉体は<生>しか知ることは出来ず、
<死>それ自体を知ることは出来ない。
<死>は肉体に起こるのではなく、世界の中で起こる。
肉体が知ることの出来ない事態を知る可能性があるとすれば、
肉体より先にある世界を知ることにある。

・・・やっぱ、抽象ですな!
アハハ
でもな、比喩なくして理解するしかないコトがあり、
それでも理解できないその先があるということ、
これを当然に受け入れようというのが
前に書いた実践であって、
「私は世界からもたらされた」ことを認識することダ。

なんでこんなこと言うかっテエと、
コトバの表現をひろげる可能性、
人間の認識をひろげる可能性が、
ソコにアリソウだからだ!

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花咲く

 03.人間のクウカン , 08.コラム@s-site >

Sのものの言い様には、
呼応する感覚をよく覚えている。
いまのぼくの問題意識を、サヤにも見るのだ。

「花は知っているから、美しく咲く」
のは、自然を自然のままに、
世界を世界のままに見ることである。

「咲いていること自体が 美しさの結果」
という逆説的な言い方は、
人間と世界との位置の転倒を呼び起こす。

 ・・・(Sのカキ場ー6/28より引用)

人間がいるから、世界があるのでは決してなく、
世界があるから、人間がある。
あたりまえのこのことを、
我々はほとんど信じていないんだよ。

われわれの実践は、
これをほんとのあたりまえに感じるため。
花は、ヒトに関係なく、咲いているんだヨ。

あたりまえ〜♪

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2003年06月03日

ひたすらにうるわしき

 03.人間のクウカン , 08.コラム@s-site >

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 大峯山(おおみねさん)っていうところがあるのね。
 吉野の近くの、もっと山奥。天川村だったかな。
 そこは修験者の地でね、いまは講のひとたちがわんさか登る山なんだよ。

 頂上にある、大峰山寺の本堂が国宝でね、(日本建築見どころ辞典とかめくってて)どうしてもここに行ってみたくて、だって地図で見るとすんごい山奥で、登山しないとだめなところにあるからどこかで決心しないと一生見られない。
で、行って来ました(←2001年のこと)。登り3時間、下り一部走って1時間ってところ。
(でもぼくの足はけっこう早いはず)

 その辺はいいとして、帰りの道でのこと。
 すれ違う人、人に、挨拶をするのね。
 ぼくは信仰もなんもない目的だから普通の登山やハイキングのように「こんにちは」だけど、むこうの人たちはみんな「おまいり〜」とか「よ〜まいり」って言ってくれる。

 かなり頻繁に登って来るひとがあるので、そんなふうに手当りしだいに挨拶しながら、小走りに下って行くと、役講のひとと話している一人の若い僧がおりました。
 恰好は山伏。ぼうずあたま。
 ところが、なんと!えらいえらいかっこえ〜〜!!!
天然で目張りがはいってるの〜?ってくらいにはっきりした二重。
綺麗な肌。すらっとした体格。
登る人も下る人も、真夏だし天気だし、みんなへばってて大汗かいてるのに、やけに涼し気な表情。
 絵のすごく上手な少女マンガ家が、古今東西いちばんの秀麗な歌舞伎役者を描いたら、ああなるだろうな〜って感じ。

 ぼくが挨拶すると、さわやかな笑顔でかるく手をあわせて、「おまいり」と言われました。こんないいひとはそうそういないだろうと、男の僕がひとめぼれしてしまいそうな、そんな光を持った御方でした。
 二百人くらいはすれ違ったけれど、この方の印象で、申し訳ないけれど他の人は全て忘れてしまった。

 これだけの人が山に籠っているとしたら、なんて贅沢な話。
 この人を美しさの象徴として考えると、俗世間の汚れをぬぐっていくような位置にこの人が来てくれまいか? いや、そうしたら権勢欲、妬み、恨み、そんなものに押しつぶされてしまうんではないか? この俗の中では、美し過ぎることは、生かされないことに繋がるんだろう、と図らずもぼくに直感させる出逢いでありました。

 この大峰山、日本百名山にも入っていて、眺めもいいし、頂上にあるお花畑なんか、極楽の様です。(注*登山口より女人禁制)
写真:masatomo写 大峰山寺本堂 2001.07

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2003年06月02日

オンナはオンナにかわりない

 03.人間のクウカン , 08.コラム@s-site >

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 五月のはじめから、ウチの自宅のマンションの同じフロアの管理組合の理事長のところのお子さまが、週に一回、ウチにピアノの補習に来ることになった。
 もち教えるのはウチの家人なのだが。
 家人自身が偶然エレベーターでおかあさまに頼まれたのがきっかけ。
 
 小学校五年生の女の子なんだけど、その子ったら、けっこう、いやかなりカワイイ!のだ。足が長いし。まさともおじさんはムムム・・・なのだが、おかしいのは、この前はスエットの裾をビロっと足首にかぶせて、靴を履かないでやって来た!
 まだ2回目だったので迎えに来たお母さん、
「あれ?あなた靴は!?」だって。
ウチに来た時にスエットからするっと足だして玄関から上がる時の慣れた動作からすると、あれはお母さんに内緒でよく裾をサンダル代わりに出て歩いてるネ〜。
その他、この子の変人の徴候は多々あり、なのだ。

・・・子供はなんでも思うままだね。
 道で絶叫しながら全速力で走っているガキンチョを見てぼくと友達は、あれ、おれらがやったらまずいよなあ、と話したことはいつも思い出すが、でもそういう大人の常識みたいなものも、もうすこし外して行ってこそ、それが発想の源泉になるのか、とも思ったり。
 太宰治の言葉にこういうのがあったヨ。
「・・・11、2サイの少女の言葉を真面目に聞ける男、ひとりまえの男というべし」と、そんな感じのこと。
 ウチに来ているその子は、ぼくの「女は何を欲望するか?」という本を本棚から「これ誰が買ったの?」とぼくのところに持って来て、「題名が渋い」とつぶやいてた。
 そういうこと、わかるのかな?と、改めて怪しい気分になっちまった。

 いやあ、子供っておもしろいですネー

写真:masatomo写 (結婚式でもらった花)

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2003年05月31日

元気! ←好きなコトバ

 03.人間のクウカン , 08.コラム@s-site >

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 この頃人気のでているジャズシンガーの綾戸智絵が、昨日のテレビに映るサマを見て、そこにまた新しい気分がぼくの中に生まれた。
 彼女は歌でココロを伝えると同時に、生きていることが、愛なのだ。それは自分への愛、子供への愛・・・みんなへの愛、彼女を目にしたとき、その愛の先にぼくは否応無しに立たされる。
 聞き飛ばせない彼女のコトバは、ぼくの内面に入り込み、問いかける。

 サヤ(このサイトのオーナー)がDiaryに書いた文に現れていた、サヤの今、

 音を聞かないアタシが
 音にハマリかけてる。

 ここには、サヤのダイナミズムがあり、ぼくにはその迫力がたまらない。
 この迫力の源に、綾戸の、歌やあの大胆な振る舞いやその愛にあるものと同質のなにかを感じるのは、現在のぼくに決定的に足りないとぼく自身が自覚するものがあるからだろう。

 ぼくはいつもココロのよどみと格闘する。
 希望も願望も、嫉妬も怒りも、喜びも快楽も、あらゆる感情や心の衝動の大きなものがあるたび、ぼくは自分の内側に行き場を失ったような抑動の停滞を感じていて、ジブンノスキに必ずしもできない自分がいる。

 このぼくの救いが、彼女らの激しいダイナミズムなのだ。

 こんな問題を一般化するつもりはないが、ぼくがオトコとしてオンナを求めるのも、こういうことなのじゃないかと考えた。

 オンナは、守らにゃいけない。

※「このサイトのオーナー」と注釈されているサヤとは、この@sayasiteコラムってカテゴリーに属する文章を掲載させてくれているサイトのオーナーで、ウグニという街に住む元気至極な女性です。

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2003年05月26日

南の海の風

 03.人間のクウカン , 08.コラム@s-site >

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 ぼくがいま、求めるもの、
 南の海の風の向こう。
 潮騒を切り、走るあの道。

 みどりの海を後目に、
 ぼくのココロは欲するところへ向かう。

 ぼくらがキミには見えるだろうか。
 ぼくが一歩に躊躇するとき、背中を押すやつがいる。
 やつが走っていたら、ぼくはやつを引っ張るほど走ろう。

 キミが降りなければ、背中を一発蹴ってやったのだ!

 ぼくに叶わぬものを遺したキミの、
 未成熟の意志、燃えぬ情熱は、
 持って行ってやる。
 キミはもう一度、歩いて来い。

 ぼくらは「求めたモノが目の前にやってくる」道を、
 きっと歩いているから。

写真:masatomo写  2001.07.22ごろ 紀伊半島の某海岸

…この詩みたいなものを書いた前日、Mのいとこ(当時大学生)が亡くなりました。
踏切で電車にはねられて。自死かどうかは不明です。でも、どっちでもいいと思いました。
そのどちらに関わらず、彼は生きていたかったと考えたからです。
死んでも生きていても、自負もあれば、恥づることもあります。みんなそうなんだ。

(2004.03.05追記)

Posted by masatomo at 20:19 | Comments (0) | TrackBack (4)

03.人間のクウカン